読む価値のある新聞とは

#5 読む価値のある新聞とは。

なぜ、#1〜4 のような肝心な問題を、日本のマスコミ人たちは揃いも揃って解説しないでいられるのか。あるいは気付かないふりをし続けていられるのか。日本の報道機関は全て、安倍晋三内閣から「一億総白痴」化の密命を有り難く押し戴いてしまっているのではないか、と危惧せざるを得ません。

日本のマスコミ人たち自身も、法的には、国会議員や最高裁長官や内閣総理大臣と全く対等な、日本国の主権者本人であるということを、忘れてやいませんか(憲法14条1項「法の下に平等」)。

一見して明らかな憲法違反すら「憲法違反!(憲法違反の疑いが濃厚である!)」と判断・解説するだけの誠実さや理性が、ことごとく欠落してしまっているため、日本の「法」「政治」分野の関係者全員、および、憲法尊重擁護義務および刑事告発義務がある公務員全員は、既に信用回復が全く不可能なレベルにまで陥ってしまっているように思われます。

「新聞記者の原点は、事実をきちんと正確に伝え、事実に一歩でも、二歩でも迫ることです。」

( ^ω^ )ハァ? です。
私、小学生から大学生の時までアマチュア新聞を作ってましたけど、そんな意識、全然持ったことないです。そんな妄想、必要ないどころか、有害無益でさえあります。

「事実をきちんと正確に伝え」るなんてことは、客観的な証拠が十分に揃っていて単純明快な事件・事象でない限り、あるいは、記憶力および理解力が極めて正確で、かつ極めて誠実な当事者自身でない限り、通常、不可能なことです。

冤罪事件や虚偽報道や共犯を避けるコツは、合理的な疑いを自ら設定し、潰せるか潰せないか、誠実無私に検証してみることです。

あとは、要所要所を確実に押さえてさえいれば、それでいいんです。
情報源そのものが虚偽の情報源でなければ、それでいいんです。
伝聞情報は、明確に伝聞情報として伝えればいいんです。
問題は、何と何がどういう理由で要所なのか、問題なのか、という記者さん自身の意見が的確(優秀)でなければならないというところにあります。

新聞作りで本質的に最も難しいのは、一コマ漫画、四コマ漫画です。

自分で作り続けてみれば嫌でも分かります。
漫画家に任せてしまっているから、報道・新聞・ジャーナリズムで最も肝心なことが何なのかが全然分からなくなってしまっているように見えます。

創作的な自由度が格段に大きい漫画、および、仲畑川柳や余録や発信箱や社説などのオピニオン的な記事以外の記事では、
『自分は完全無欠とは程遠い低脳ちゃんなのだ。猫や犬より大脳が発達してるだけなのだ』と自覚し(「無知の知」」)、
裏付け確認と情報源の秘匿義務を忠犬ハチ公のように固く守り続け、
具体的な意見や合理的な主張や関連情報を猫の目のように気まぐれに列挙さえしておけば、
読者の興味や信用を失うようなヘマをしないで済むと思われます。

読者が読みたい(知りたい)のは、(1)事実の具体的な概要と、(2)その事実の意味や関連性や問題点についての、その記者なりの、創作的価値のある意見です。端的に言えば、全体像の把握ぶりと、議員・判事・検事・大臣・競合他社との智慧比べぶりです。

(1)については、ただただ正確で詳細な「事実」が最優先される場合もありますが(e.g. 試合などの結果、判決文、会見内容など)、そういう場合でさえ、写真や(2)がなければ、、新聞記事は保護されるべき著作物ではないということにならざるを得ません。
日本の大手マスコミ人たちが致命的におろそかにしている部分は、この肝心要のはずの(2)の部分です。

ついでに言っておきますが、客観的事実だけをどんなに正確に述べようとしても、人間である以上、誰がいつ何の病気で死にましたというような記事の場合を除き、ほとんどの記事にその記者自身の意見・その社の風土がうっすらと反映されてしまっています(判例で、そういうことになっています)。

ところが、何でもかんでも「うっすらと」というような不誠実で臆病な態度では、報道機関・マスコミ人としての存在意義・信用性がどんどん失われていくだけです。それも致命的に。

『で、何が言いたいの?』『恐くて言えないの?』『恥ずかしいの?バカなの?』となってしまう報道・記事は、右左に関係なく、基本的にアウトです。

間違っている意見の場合でも、その論拠と論理がそれなりに示されてさえいれば、民主主義国の国民のあり方としては、それはそれで十分OKなのです。真逆のスタンスの第三者でさえ相手(記者さん)が言わんとしていることの理由をそれで十分理解できるわけですから。

具体的に言うと、私の意見と産経新聞の記者たちの意見は真逆なことがよくあるわけですが、最もチェックする価値があり、かつ、(反面教師として)最も栄養源となってくれているのが産経新聞の記者たちの本音の意見ということになります。

要は、本音の意見を、いかに正当な論拠で、いかに論理的に主張するか、です。
読者に対する説得力競争が報道機関の宿命なわけです。

イデオロギー闘争や私怨闘争や私的擁護やエゴ強要が簡単に見透かされてしまうことが多いのは、説得力の質に何らかの根本的な違和感を感じさせられてしまうからです。