愛=渇愛=煩悩


以下は、2007年瀬戸内寂聴日めくりカレンダー2月13日からの引用=転載。

 釈尊人間の愛渇愛(かつあい)と呼び、
それを煩悩の一つとされたことからみても、
若かりし日の釈尊は、人の愛にとことん苦しまれた経験がおありだったのではなかろうか。
(引用=転載、終わり)




日本人は一般に、この「愛」という言葉について、
明治以来、実は大変悩ましい状態に置かれております。


それは、仏教的には「愛」は典型的な煩悩であり、これはこれで全く正しいからです。
一方で、世界的に、
イエス・キリスト(西洋文明)が人間として最も大事なものとして説いている自己犠牲的な隣人愛も、
同じ「愛」という言葉で表現されてしまっている節があります。


「節があります」というのは、
イエス・キリストやその直弟子たちが説き、実践した、
必ずしも容易ではない、自己犠牲的な隣人愛(マタイ福音書7章1〜14節)

パウロイデオロギー的に説いている、
明らかに超ウルトラ容易な、煩悩そのものの「信仰・希望・愛」(コリント人への第一の手紙13章13節)とは、
当然、別物として考えられるべきものであるからです。


実際、イエス・キリストの教え(マタイ福音書ヨハネ福音書)と
パウロの説いているファシズム教とは、
「キリスト」「イエス」「信仰」という言葉の表面上の一致以外には、
本質的な一致は全くありません。


簡単に言えば、ヤコブヨハネたちが言う「偽使徒」とは、
安易なことばっかり説いているパウロ・ルカ・マルコ・バルナバ・テモテ・テトスたちである
ということにならざるを得ません。


例えば、
繊細で賢明な日本人なら誰が読んでみても明らかなように、
マルコ福音書は、マタイ福音書の骨抜き改竄板でしかなく、
ルカ福音書は、マタイ福音書の内容改竄板でしかありません。


ルカ福音書は、
アダムからイエスの系譜でさえ、もっともらしく大改竄しております。


ところが、
マタイ福音書とマルコ福音書とルカ福音書とを
「共観福音書」などと妄想・強弁するような無神経なクソドアフォのウソつき悪魔どもが
ローマ法王以下、キリスト教の聖職者などをやっております。
とんでもない話です。
西洋人の鈍感さは、甚だ不思議です。


ともかく、
キリスト教は、
宗教組織としては、とっくの昔に悪魔の集団に乗っ取られてしまっている
と考えざるを得ません。
極めて明らかな話です。


キリスト教
悪魔の集団に乗っ取られ、
悪魔の集団によって余りにもひどい歪曲を受けてしまったために、
また、この世でのファシズム支配の手段として悪用され続けたために、
神様は、イスラム教とイスラム教徒たちを新たに誕生させ、
パウロ教徒(ファシズム煩悩教徒)どものとんでもない間違いを
この世でも嘲笑されるべき対象としたのでありましょう。


よって、
バウロ教徒どもとイスラム教徒たちの戦いは、
パウロ教徒が一掃されるまで、
今後も繰り返されるだろうと考えざるを得ません。


私自身の直接的な体験からいっても、
キリスト教弱い者いじめしか能のなさそうなファシズム「聖職者」どもよりは、
仏教の生臭坊主どものほうが遥かにマシな感じがいたします。






こういうわけで、日本人の場合あるいは日本語の場合、
結婚に至る「恋愛」の場合でさえ、
自己犠牲的で相互尊重的な隣人愛・菩薩行の実践の場合から、
極めて自己中心的な支配・被支配の関係でしかないサドマゾ的渇愛関係(我執、超ウルトラ煩悩)の場合まで、
まるで「恋愛」の概念・内容が一致しないという事態が生じてしまっております。


したがって、
「恋愛」とか「恋人」とか「夫婦」とか「結婚生活」とか同じ言葉で表現されていても、
その各々の本質的な中味・実態は、
想像を絶するほど全く様相が異なっているということも大いにあり得る
と心得なければならないわけであります。